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銭湯666さんのプロフィール

自己紹介
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江戸における最初の銭湯は、1591年(天正19年)、江戸城内の銭瓶橋(現在の大手町 (千代田区)付近に存在した橋)の近くに伊勢与一が開業した蒸気浴によるものであった。

その後、江戸時代初期の江戸では浴室のなかに小さめの湯船があって、膝より下を湯船に浸し、上半身は蒸気を浴びるために戸で閉め切るという、湯浴と蒸気浴の中間のような入浴法で入る戸棚風呂が登場した。

さらにその後、湯船の手前に石榴口(ざくろぐち)という入り口が設けられた風呂が登場した。細工を施した石榴口によって中は湯気がもうもうと立ちこめ、暗く、湯の清濁さえ分からないようにして入浴するというものであった。後に、客が一度使った湯を再び浴槽に入れるという構造になり、『湯屋漫歳暦』には「文政(年間)の末に流し板の間より汲溢(くみこぼ)れを取ることはじまる」との記述がある。

こうしてだんだんと薬草を炊いて蒸気を浴びる蒸し風呂から、次第に湯に浸かる湯浴みスタイルへと変化していった。

男女別に浴槽を設定することは経営的に困難であり、老若男女が混浴であった。浴衣のような湯浴み着を着て入浴していたとも言われている。蒸気を逃がさないために入り口は狭く、窓も設けられなかったために場内は暗く、そのために盗難や風紀を乱すような状況も発生した。1791年(寛政3年)に「男女入込禁止令」や後の天保の改革によって混浴が禁止されたが、必ずしも守られなかった。江戸においては隔日もしくは時間を区切って男女を分ける試みは行われた。

営業時間としては朝から宵のうち(現在でいう夜の8時くらい)まで開店していた。浴場、銭湯が庶民の娯楽、社交の場として機能しており、落語が行われたこともある。特に男湯の二階には座敷が設けられ、休息所として使われた。式亭三馬の『浮世風呂』などが当時の様子をよく伝えている。当時の銭湯の入り口には矢をつがえた弓、もしくはそれを模した看板が掲げられることがあった。これは「弓射る」と「湯入る」をかけた洒落の一種である。

なお、当時は内風呂を持てるのは大身の武家屋敷に限られ、火事の多かった江戸の防災の点から内風呂は基本的に禁止されていた。江戸時代末期には大店の商家でも内風呂を持つようになった。
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