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金沢文庫はいいところさんのプロフィール

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金沢文庫はいいところさん 2018/01/13 05:41:48 かつて勤務していた会社の先輩で、なな何と「自らを殺処分してくれと」年中行事のごとく、行きつけの医者と市役所の保健課に陳情している人に関する投稿は、まずは彼がこういう思想信条に至った経緯として、家族の歴史を遡って記述したほうが良いだろう。その先輩の現在の日本に対する感想を一言でいえば「日本タヒね」である。それも最初に「日本氏ね」といった連中とは思想の方向性が真逆であり「オレのような劣性遺伝子は早く殺処分して、財産も全部取り上げて有効に運用利殖できるのにそうしない、パヨク官僚人権屋官僚に乗っ取られてしまった日本は早くタヒね」だから、当然日常生活で自らの自由意志で選択した仕事に対する技術の向上心には凄まじいものがある。当然の事ながら、ワタミの渡辺会長を尊敬しており、労働者の啓蒙教育として「居酒屋甲子園」「ポエム甲子園」の熱心な支持者でもある。
金沢文庫はいいところさん 2018/01/16 08:39:07 そのかつての勤め先の先輩とは現在でもつきあいがあり種々の分野での面倒をみてもらっている。
非常にまず自分に一番厳しいお方なので、お説教を食らうたんびに、思い切って逆らう言葉が吐けない存在でもある。
世界遺産に登録されている、靖国神社に祀られている英霊の皆様と神風特攻隊の英雄を尊敬してやまず「正しく自らの人生を振り返って反省して常に向上心を磨きまっとうな大和魂を発現できる人間になれ」が口癖なのである。
「出来ないというのは甘えなんだ、大東亜戦争時代のアジアの解放ひいてはすべての差別からの解放のための聖戦を一丸となって闘った当時の日本国民の精神を取り戻すべきなんだ。月月火水木金金で毎日一六時間まっとうに労働を一か月間すれば、健全な精神と身体の持ち主であれば体が純化されて眠りが深くなって、一日あたり四時間~五時間の睡眠で済むようになるんだ」と断言なされる。
「精神病やうつ病になるのは甘えなんだ、精神科医というものはだなぁ人の甘えたい心の弱さにつけこんで国庫に納められている税金にたかる寄生虫なんだ、精神異常にある人間が少しでも愛国心に目覚るならば、医学の発展のために自らの殺処分申請と献体提供手続きをして当たり前だ」「ただしたとえキチガイになっても、林修先生の教えに従ってキチガイの治療をして、高額納税者を目指すという愛国心のある連中ならば、日本人だろうと在日外国人であろうと、この日本に住める値打ちのある連中だ」と、差別反対かつ能力主義の持ち主ゆえに、σ(゚∀゚ )オレはその先輩には全く頭が上がらない。
金沢文庫はいいところさん 2018/01/17 00:35:11 その先輩は日常生活の態度からして、まず自らに一番厳しいお人であり、出自では差別を一切しないし、学歴を問わず今現時点での日本国への納税者としての義務を果たしているか否かで判断する徹底した能力主義者なので、お説教をガツンとされるのだが間違っていると思っている部分があったとしても、普段の面倒をみて下さる現状を失うのが、σ(゚∀゚ )オレは恐いので頷くことしかできない。
その先輩の出自は、曾祖父母の代には平野部の農村地帯に居を構える名門士族であると同時にその村落では二番目に経営規模の大きな豪農でもあり、終戦後の農地改革までは数十人を超える小作人たちとともに額に汗水を垂らして働くことが生甲斐の近代日本の模範的労働者であると同時に人格者でもあったので近郷近在の人々から尊敬を受けておった。
親族の人脈は遠くアメリカやブラジルにまで及んでおり当然のことであるが19世紀末には関東地方に就職して現地同化した四世五世の江戸っ子となった人々も多く存在する。
金沢文庫はいいところさん 2018/01/17 00:47:57 その先輩および所属している親族の大半の人々はワタミの渡辺会長を尊敬する人々の一団でもある。その先輩の言い分はこうだ!
「お釈迦さまもその弟子の歴史に残る偉人認定された高弟のお坊さんたちの語る言葉はどの時代にも通用する普遍の心理なんだぞ、人がどのカーストこと身分に属するかは出自によって決まるもんじゃぁねぇんだ、何をなしたかによって決まるんだ。オレの属する親族は旧名門士族なんだが大半はどう贔屓目にみても無能な働き手の連中なのでシュードラこと穢多非人だ、これに対してワタミの会長の渡辺先生は平民の出なんだが、会社の研修会などにおいてわが祖国日本の誇る誠実さを誇りとする商人道とモハメットが創設したイスラム教とは同じであることの教育をされる二十一世紀を代表する立派な啓蒙思想家なので、まことの武士階級ことクシャトリヤの属する存在ではないか!!渡辺会長への誹謗中傷は許さんぞ!」である。
金沢文庫はいいところさん 2018/01/17 00:56:07 またその先輩の話によれば、関東地方に土着化した親族の家にだな、ワタミ会長の渡辺先生のお爺さんの代お父さんの代には戦前と終戦からあまり時間が経過していない時だったので当時は名門士族と平民という関係だったんだがお互いが自営業者としては同じ日本国民で納税の義務を果たす目的が最優先という事での強固な団結でお互いが平等の小規模な取引関係にあったらしい。
金沢文庫はいいところさん 2018/01/17 15:43:20 その先輩がイスラム教について理解したつもりになった経緯は「風が吹けば桶屋が儲かる」のたとえ話を地で行っているので書き込みしたい。
σ(゚∀゚ )オレは物理的な意味ではヒキニートでは全くないんだが、精神的矮小さという意味でのヒキニートであることに間違いないので、その先輩の行動力と行動範囲の広さを尊敬している。
スポーツ全般が得意ではない方なのではあるが仕事のための健康管理のための筋力維持方法と持久力維持方法の訓練は高卒以降ほとんど毎日欠かさずマジメに実践なされているお方でもある。
あくまでも仕事仲間との親睦会を兼てのスポーツ観戦が趣味であり、若い頃は地元で開催される公式戦と親善試合限定ではあるが、ジャンルを超越しての集団観戦の幹事役を勤務先の同僚とは順繰りで引き受けられた事も何十回とあった。
卒業した学校の校歌も勤め先の会社の社歌もうろ覚えであやふやなお人であると同時に、スポーツ強豪校の校歌は幾つも丸暗記で最初から最後まで上手く歌えるという存在でもあって「何が縁となるかが先読みできない面白さを味わえてよかった」とその先輩ご自身が何度も仰っておられた。
卒業生でもないのに幾つものスポーツ強豪校の校歌を丸暗記で上手に歌える技能ゆえに、特に一九世紀末や二十世紀初頭に開校した長き伝統のある公立系の商業高校の部活動担当の教師たちや顧問たちとも仲良しになれて、現在ではあまり歌われていない校歌の三番や四番の歌詞の意味を教えてもらえるのが楽しみでもあったそうな。「かつての大日本帝国時代の国是としての五族共和というスローガンがあるのでですが、それをも飛び越えてイスラム世界への友好と植民地状態からの解放戦争を支援するとの意味合いも兼てああいう歌詞にしたそうです」と教えてもらえた時には思わず小躍りしたそうだ。
金沢文庫はいいところさん 2018/01/18 08:08:40 さてその先輩の父方のお祖父さんの生い立ちに関する記述をスタートさせるんだが、その先輩と同じく省略してそのお祖父さんで統一しようと思う。そのお祖父さんの両親であればその曾祖父母と省略することとなる。
金沢文庫はいいところさん 2018/01/18 08:19:15 その先輩はそのお祖父さんに対する評価が非常に低いのだ。それはとりもなおさずそのお祖父さんの自己採点評価が自らに非常に厳しくて、親族とか取引先の知人とかの戦後になされた会話の中でこう語っていたからである。「自分は旧士族階級出身の癖に、自らの自由意志で志願した神風特攻隊に十数回連続で落とされて終戦になってしまった、同年齢や年下の平民階級で、自らの命と引き換えに敵艦に体当たりして散華して、靖国神社に祀られている英霊な存在は沢山いるというのに・・・・・・・アメリカの祖国ニッポンに対する侵略戦争から、郷土と愛する親族を守る防衛行動が全く為せなかったヘタレ人生をおくってしまった。志願兵からポツダム昇進で大尉にまでなれたんだが、所詮は小手先の射撃狙撃が上手なだけの小利口な策士に過ぎなかった情けない青春時代だ」と自虐としか思えない自己反省ばかりなされるお人であった。
金沢文庫はいいところさん 2018/01/18 08:30:12 そのお祖父さんは、確か四歳か五歳の時に流行していた伝染病にかかり後遺症で右目の視力をなくしてしまったのだ。両親であるその曾祖父母が往診にきていた同じ村落共同体在住の医師に、優先順位として最後尾でよいと大声で叫んで釘を刺していたのが原因である。最優先なのは小作人の作男の人々であった。額に汗を流して農地をともに耕して収穫の喜びをともに秋の村祭りで分かち合う人々であるがゆえの、天皇陛下に忠勤を誓う同じ大御宝としてのかけがえのない同志としても数十年間の苦楽をともに味わってきた人々でもあったからだ。
金沢文庫はいいところさん 2018/01/18 08:41:13 当然の事ながら往診にきていた医師はその曾祖父母に対して説教をする。「跡取りの長男を失明させてまで作男にいい顔をする行為は親として失格ですな」と。
もちろんその曾祖父母も負けじと言い返す「大御宝の人々を大切に扱うのは、日本人としての臣民の義務ではないか、いやどこの国でもマトモな精神であれば優秀な農民として忠勤できる人々を大切にするのが正しい愛国心のあり方でしょうが、子供の将来なんてどうなるかわからん、いまここにある危機を乗り切るためには愛国者優先な行為は当然でしょうが!」と。
そのお祖父さんは病床で、その曾祖父母と医師の怒鳴りあいを遠耳状態でしか聴けていなかったのではあるが「自分にはまだ左目の視力があるじゃないか、聴力だって満足だ、体が片輪になっても心まで片輪になってはいけない、それ相当に自分なりに愛国心を出せる道はあるはずじゃないか」と却って奮起していたのであった。
金沢文庫はいいところさん 2018/01/20 07:32:45 その一族が旧名門士族に属するそのお祖父さんが、靖国神社に英霊として祀られている平民出身者や神風特攻隊の勇士と比較して自己卑下な状態になるのには正当な理由があるのだ。
その先輩から聞かされたそのお祖父さんが話してくれた内容によれば、十数回も自らの自由意志で神風特攻隊に志願したのに全て撥ね付けられた者どもの共通点として、ただの俗物としての強さしか持てない部分があるというのだ。得意な分野は射撃、それに加えて狙撃兵としての優秀さだけ、高等数学の方程式を理解する学業なんて全くチンプンカンプンの世界の住人でもある。但し算盤が得意で暗算も含めて細かな数字の計算の速さと答えの正確さのみが自慢という俗物そのものだとそのお祖父さんは自嘲される。
金沢文庫はいいところさん 2018/01/20 07:48:22 そのお祖父さんの回想によると神風特攻隊の勇士として選ばれた人々は、外見も内面も素晴らしき人々であるがゆえに、万が一特攻に失敗して死ぬことができず不本意ながら気絶してどうしようもない状況下で侵略者アメリカ軍やその腰巾着な連合国の捕虜になった場合に復讐裁判の対象外となって丁重に扱われて生きて祖国ニッポンに帰還できる可能性の高い、外国文化への理解をも高い高等教育を受けた高学歴の優等生が選抜されたそうだ。
具体的例を挙げるならばドイツ語が旧制中学生時代に最初に習う西洋系の言語で、ドイツ語で長文作成を書くことができてクラシック音楽の名曲を何十曲と空で歌うのが得意な人々とか、詩は漢詩体で書ける高度な趣味の持ち主で中国の古典軍学と宗教書の原著を漢文体で読むことができて中国の教養人とも漢文で筆談が得意な人々であり、古典教養とか芸術家という文武両道マイスターこそが神風特攻隊に選ばれて靖国神社の英霊として眠っておられるそうだ。
金沢文庫はいいところさん 2018/01/20 08:10:10 そのお祖父さんばかりでなく自由意志による神風特攻隊志願者なのに落第続きで終戦を迎えざるを得なかった人々が、劣等感に苛まれつつも確信をもって実感したことは、日本の防衛戦争の失敗の原因は単なるアメリカと腰巾着連合国の物量作戦によって負けたに過ぎず、日本人の精神性は圧倒的絶対的に高いという事なのだ。
そのお祖父さんと不合格者の人々は、落とされるたびごとに神風特攻隊を選抜する側である佐官クラスや場合によっては将軍クラスの上官や高級将校に食い下がった。
「何で僕たちが落とされるんですか!靖国で会おうという国防の誓いの言葉は僕たちにとっては埒外なんですか!僕は右目の見えない片輪だから英霊になれんのですか!体が片輪だと心も片輪だと思われて、愛する郷土の人々を守る止むに止まれぬ大和魂の値打ちにはなれないとの判断ですか」と。
この食い下がりに対しての上官たちの言葉の優しさによる精神的ケアに、そのお祖父さんや落選者たちは劣等感を癒されたそうだ。「この罠にはめられた戦争は負けだ、そして長い間再軍備が禁止される未来になるかも知れない。その時にはアメリカなどの敵国との戦争形態は経済戦争に絶対になる。経済戦争が主戦場と化した場合に備えて、今度こそ日本人の素晴らしさを世界の人々に教えるために、心を鬼にして不合格にした者たちは沢山いる。どうか冷静になって不合格になった者たちは自らの長所と短所とを見詰め直して欲しいのだよ」と。
それでそのお祖父さんと不合格にされた人々は、靖国に英霊として祀られている勇士たちの後を追って自殺するという気持ちは完全に吹っ飛んで、何とか戦後体制の土俵でかつての敵国に勝ってやるとの熱い思いが抱けたそうなのだ。
金沢文庫はいいところさん 2018/01/22 15:09:26 そのお祖父さんが志願兵としてようやく採用されたのは昭和12年の上海事変から数か月あとのことである。最初の大正時代に受けた徴兵検査が右目失明で不合格になってから二十年以上も全く同一の理由で不合格の連続であったがゆえの、そのお祖父さんは「お国のために役立てない片輪の非国民な自分が一番情けない」と当時のニッポン男児ならば誰でも抱いている劣等感の大きな理由で悩みが頭から離れることはなかったのだ。
当時のそのお祖父さんの仕事は、豪農の跡取り息子としての職責は弟の確か三男に譲り、責任者としての三男坊に家族全員が戦力集中してお家の維持と結束を図るというものであった。猟師の集団の一員として主に当時の軍都広島や工業都市小倉の市場に猟銃で殺処分にした野生動物を販売する縄張りに所属する一員であった。
「上海の上陸隊は苦戦している、緊急事態である」との見出しが踊った当時の新聞は常に出張先でチェックしていたし、戦前の新聞はルビが振ってあったから学習意欲さえあるならば、精神年齢が四歳児や五歳児でも可能であった。
そのお祖父さんは出身の村にある尋常高等小学校に通っていた顔見知りの優秀な平民階級や小作人家庭の出身者で同年齢や下級生の複数の者が、旧制地方公立中学を進学卒業後に陸軍士官学校や海軍兵学校を卒業して優秀な職業軍人として活躍している話を聞いたり実際の様子をみて、当然二十年以上も忸怩たる思いでいたゆえか「上海の上陸隊は苦戦している」が当時の流行語でもあったために、「絶対にウソはつかない正直者として模範的日本人として生きる」の誓いを破る事にしたのだ。
金沢文庫はいいところさん 2018/01/22 15:33:07 そのお祖父さんは徴兵検査で「右目の視力が第三帝国からゆにうした最新鋭の手術で回復」とのウソの理由でごまかしてようやく合計三十回目近くになって甲種合格、希望取りに中国大陸の最前線の後方にある事後掃討作戦の作業員として最初は三十台後半の二等兵として送られることとなった。もちろんそのお祖父さんは歓喜のあまり年下十歳以上も年下の部隊の責任者であるエリート将校や、現場担当のまだ青年になったばかりの二十歳そこそこの下士官との相談して許可を受けた上で、人が嫌がる先頭に立って偵察行動も強行突撃突破行動も引き受けた。
二十年以上にわたった鉄砲猟師としての仕事人としての苦労と観と経験とが生きて、敵軍の伏兵的場所にいる狙撃兵の位置を完璧に近い形で察知したり、そのお祖父さんが率先しての一番強行突撃のお陰で、部隊の危機を何度も救った事のために昭和二十年八月の時点で中尉にポツダム昇進とやらで大尉での除隊扱いになった。
金沢文庫はいいところさん 2018/01/22 15:45:40 そのお祖父さんが甲種合格のために、ウソのアリバイ工作を通すために、猟師時代に知り合った三人の医師に診断書を書いてもらうのと、複数の軍部の検査官と試験官に猟師時代に稼いだ貯金からワイロを贈ったことはいうまでもないんだが、軍人としての不合格となる欠格条項の持ち主なのに、いざ前線に立たせてみると優秀な勇卒な結果しか出ない場合には健康体の持ち主と扱う行為は、当時の神州ニッポン人の暗黙の了解でもあった。
そのお祖父さんも合格した時点では二等兵扱いなんだが、二等兵から上等兵を通過するのには年齢の問題と勇卒としての功績から一年と少ししかかからなかった。
ただ、兵長という階級と准尉という階級を通過するのに半年以上の経過が必要でもあった。実在する階級でも、実際の運用では少数の人間のみが通過させられる階級が存在する理由としては、わが祖国日本での運用の方法として「欠格条項で職業軍人として本来は不採用の対象だが、勇敢な兵卒としての任務をこなせる者」との高評価の動かぬ証明として軍部全体に徹底する意味の兼ね合いもあったそうだ。
金沢文庫はいいところさん 2018/02/09 01:30:43 そのお祖父さんは、終戦後、実家の平野部の農村地帯にある実家は三男坊である弟に豪農の戸主の座は譲って、西日本有数の港町として千数百年の伝統のあるところの商店街に移住して「ひちや」を開業した。食糧安保の発想もできる商売人として生きるために港町を取り囲む小山を一つ購入しての果樹園の兼業農家も兼てである。すぐに「歴戦の勇士」としての評判が広まったので、薄利多売の路線には簡単に移れたらしい。当時の換金レートは不明なんだが他の「ひちや」と比較すると約一割引きほどお客さんのためになる価格帯で実売買できたそうだ。
更に昭和30年(1955)に毎月一定額の安給付ではあるが大尉退役としての軍人恩給が支給されるようになってからも絶対に遊興費や売春費に回す愚行は一切行わず、お客さんのための交換レートに使用するか、農産物生産のための設備投資に回す事しかしなかったのだ。
金沢文庫はいいところさん 2018/02/14 04:16:43 斜め読みすれば、沢村直樹先生こそが、安倍総理の最大の「けなしもちあげ応援団」かもよ、
手間暇かけても安倍総理の名演説「二つの海の交わり」で出てくる固有名詞を検索して詳細を知れば
安倍総理こそが日本人在家としては「インド学」の最高権威であることが理解できる。
その後で沢村先生のツイキャスやようつべ動画を見れば、マトモな精神の持ち主であれば「堕落した葬式仏教徒になってしまった沢村先生に理不尽な攻撃をされている安倍総理は可哀想」と同情するしかなくなるもんね。
金沢文庫はいいところさん 2018/02/14 04:32:15 そのお祖父さんが中国大陸の戦線にいたのは、大陸打通作戦が成功した直後の昭和19年(1944)の直後の6月までで、本土決戦要員を育成するための将校教官として階級は中尉昇進で南九州の日向灘沿岸にある基地に配属されたらしい。
最終的な計画では、そのお祖父さんと同年代の40過ぎた将校クラスの戦友たちは、本土決戦で敵軍が日向灘に上陸に来た際の水際作戦のための要員である。
それまでは鹿児島に送りだされる特攻隊員の基礎体力を育成する教官としてのお仕事が中心となっていた。
自分たちよりも年齢が若くて敏捷力のある優秀な人々が鹿児島の最前線基地送りになることで、そのお祖父さんと戦友たちは特攻隊員に選ばれなかった劣等感満杯で地団太踏んで悔しがる毎日が続いた。もしも自分たちが特攻隊員として採用されたならば、そのお爺さんと戦友たちはゼロ戦エンジンだけ搭載した木製特攻機の剣でいいからとの熱望があったらしい。そのお祖父さんと戦友たちが終戦を迎えた昭和20年(1945)8月には、日向灘での水際特攻作戦として木製ボート震洋の訓練が始まったばかりの時点であったらしい。
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